「茶屋」と「お茶屋」と「料理茶屋」はどう違う?|ひも解く茶屋の歴史
赤い毛氈(もうせん)と立てかけられた葦簀(よしず)が印象的な茶屋。時代劇で旅人が休憩しているシーンを見たことがある方も多いと思います。最近では、伝統的な茶屋をモチーフにしたカフェも人気を集めているそうです。そんな昔ながらの茶屋には、いろんな形態があることをご存じでしょうか。例えば京都で「お茶屋さん」と言えば、舞妓さんや芸子さん遊びをイメージします。一方、老舗の料亭の中には「料理茶屋」を名乗っている店舗が少なくありません。奥深い茶屋の歴史をひも解いてみましょう。
庶民の社交の場でもあった水茶屋
江戸時代に江戸・京・大坂などの都市部に登場したのが「水茶屋」。茶葉を売る「葉茶屋」と区別するために「水茶屋」と呼ばれ、人が集まりやすい寺社仏閣の門前や街道沿いに店を出していたそうです。茶屋には庶民はもちろん、身分の上下に関わらず客が集まったことから、社交の場としても人気でした。煙草で一服しながら、うわさ話に花を咲かせたり、世間へのうっ憤を晴らしたりしたのではないでしょうか。お茶を通じたコミュニケーションが、水茶屋を楽しむ理由だったようです。
酒食の提供で、さらに進化した茶屋
水茶屋では、お茶の他に団子や餅を売るようになり、現代の喫茶店のような役割をしていました。その中から、さらにお酒や料理も提供する店が現れ、「料理茶屋」へと発展していきます。料理茶屋もいくつかの業態へと派生していき、貸席専業の「待合茶屋」、男性と女性が待ち合せたり出会ったりする「出合茶屋」などが誕生しました。他にも、歌舞伎劇場の近くには「芝居茶屋」、相撲小屋には「相撲茶屋」が置かれるようになり、さまざまな目的で利用されました。
浮世絵にも描かれた茶汲女が大人気に
最初は床几を出して葦簀(よしず)を立てかける程度の備えだった水茶屋も、酒や肴、料理も提供するようになると、奥座敷を作るようになります。商人たちの商談や寄合の場として利用されるわけですが、美人の茶汲女がいる店にはたくさんの人が集まるようにもなりました。評判の看板娘は浮世絵にも描かれたほどの人気で、毎日通う男性客も少なくなかったとか。さらには、相撲番付に見立てて「水茶屋娘の番付」まで販売され、飛ぶように売れたと言います。茶屋娘の手ぬぐいや江草紙まで販売され、まさに現代のアイドルのような存在であったと考えられています。
江戸時代後期には、本格的な料理茶屋が出現
江戸時代前期に広まった水茶屋は、徐々に発展を遂げて、江戸時代後期になると本格的な料理茶屋が出現します。この時代になると有力な商人や町人たちが、高級料理を楽しめる店を求めるようになります。そこで名物料理を提供する料理茶屋が江戸から広まっていき、懐石料理も流行し始めます。京都でも三条・四条周辺で川魚料理主体の店などがあり、芸者などが呼ばれる場合も少なくありませんでした(現在の京都では、祇園・先斗町など一定の区域に限って営業する芸妓を呼ぶ店をお茶屋と言います)。このように繁華街を中心に料理茶屋が栄え、その文化は現在にも受け継がれています。
奥深いお茶と庶民の歴史
旅人や参拝客が休憩する場であった水茶屋から、懐石料理やお座敷遊びなどを楽しむ場へと発展・派生していった茶屋。お茶は日本の文化に大きな影響を与える重要な存在であったと言えるのではないでしょうか。いろんなお茶にまつわる歴史を調べてみると面白いかもしれません。
【参考文献】
JTウェブサイト たばこの歴史・文化
https://www.jti.co.jp/tobacco/knowledge/society/senryu/13.html
現代ビジネス 本/教養
https://gendai.media/articles/-/51859?imp=0